北木島楠港・・・
笠岡港(住吉港)から真鍋島を結ぶの普通定期船が寄港します。昔は香川県の多度津まで行っており、四国へ渡る穴場の航路で盆と正月はたいへん賑わっていました。
私の記憶にある船は大きな木造船で、小学校に入った頃に「あさなぎ」と「ゆうなぎ」という大きな鋼鉄船になりました。現在は高速船と区別がつかないくらい小さな船になっています。それと当時は浮桟橋の代わりに廃船となった石船を利用していました。待ち時間に操舵室や下の畳部屋で遊んだ記憶があります。
当時はお盆が終わると本土に帰る人々でたいへんな賑わいでした。連絡船が真鍋島から大浦港へ入る様子がよく見えました。そして大浦港からこちら楠港へ向かってくると皆さんのお別れタイムとなります。大概は次に来るのは一年後になるわけで、あちこちで涙のお別れ光景がみられました。老いた母たちが涙ぐんで「来年もまた来るんで・・」とかいう言葉が交わされていました。
現在は本数も減って小さくなった定期船が寄港しても一人も降りず、一人も乗らず・・・という寂しい光景でした。
かつての賑わいは二度と戻ってこないのでしょうね。
この場所の母の想い出は・・大好きだった一番上の兄が出兵して行った光景だそうです。赤紙受け取って、集落の人々に見送られて楠丸という船に乗って湾内で3周廻って汽笛を鳴らして岬の向こうへ消えて行ったそうです。その兄は昭和20年ルソン島にて21歳で戦死(戦病死)しました。
私にとって北木島は楽しい思い出ばかりですが、母にとっては悲しい思い出しかないそうです。

楠港の横にある浜辺・・・
海水浴場までは遠いので、実家から近いこの浜で海水浴をすることが多かったです。

港の前にある廃旅館・・・
お盆の時期(昭和40~50年頃)は常に満室だった記憶があります。

別荘があった松原(楠海水浴場)に行ってみたいと思います。
墓地の裏側にある細い路地を一山超えていきます。
蜘蛛の巣が張ってあり暫く人が通行していないようでした。

山を越えると松原です。楠海水浴場ということになっていますが暫く人が足を踏み入れた形跡はないようでした。
岬の先端には「重ね石」と「猫岩」が見えます。
夏休み(昭和50年前後)は大勢の海水浴客で賑わっていました。今はコンクリート造りの海の家も崩壊していました。

岬の付け根にはかつて5軒ほどの民家があったらしいですが全て朽ちて倒壊していました。

●別荘跡地・・・
松原には祖母と母(当時20代前半)が2人で暮らしていた別荘があったそうです。昭和30年代前半の大型台風(たぶん室戸台風)で倒壊したそうです。災害時母は明石市に居る兄の所に遊びに行っており難を逃れました。残っていた祖母が命からがらに脱出して松の木にしがみついていたそうです。母が戻ってきたら家が無くなっておりビックリしたそうです。
浜辺を進んで行くと、木々の間に別荘跡の石垣が見えてきました。この石垣は別荘の地下室部分だったようです。

茂みを入って行くと別荘の基礎が残っていました。
当時としては珍しい観音開き窓のモダンな建物で自家用のボートもあったそうです。
岡山県知事が島を訪問した際にこの別荘で休憩したそうです。

ということで、楠地区の実家も別荘も崩壊していました。
親族の家もほとんどが空き家になって崩れかけていました。
子供たちは居なくなり学校は廃校となり、老いた親たちは死亡したり本土の息子たちが引き取って島を去り・・・
盛んだった石材工業も時代の流れで廃れて・・・まさに限界集落の様相でした。