●共選場(きょうせんじょう)・・・湯の池のすぐ近くにあります
当時は意味も分からずみんな「きょうせんじょう」と呼んでいた所・・・地域の農産物を持ち込んで選別・出荷する農協の施設らしいですが、米の出荷時期以外は農協関連では使用されておらず地域の公民館のような存在でした。建物は当時のまま残っていました。一階の倉庫前面が一部壁になり中央がシャッターになっていました。当時は前面全体が木の扉でした。
ここの庭で夏休みのラジオ体操をやってました。
1階が倉庫で(勝手に侵入して)秘密基地みたいに遊んでました。
2階がだだっ広い板間で隅っこに8畳の和室があり、そこに火の見櫓の放送機器があった。
その2階は「子供会」の活動場所で年に3~4回子供祭りとか子供集会みたいなのをやってました。
集会では地域の子供が何か出し物を考えて披露したりクイズとかゲーム等をやってました。自分は手品をやった記憶があります。午後からはいつも男の子全員参加でプロレスとかやりました。子供祭りでは1階の倉庫を開放して軒先の柱をコーナーポストにしてリングを作り子供会のプロレス大会をやりました。自分は背が高かったのでジャンアント馬場役でした。庭には観客席を設置して横ではバーベキューもやってました。
●農協マーケット
農協出張所に付属するマーケットで自宅から一番近いので日々の買い物の殆どがこの店でした。
隣に魚屋さん(村上鮮魚店)があった。
現在は閉店して釣具屋になっているみたいです。魚屋さんは近くの自宅に店舗を移してました。

●スーパーまるいち
本店が中学校の近くにあって、ここは支店だったと思う。
よくお菓子とか少年雑誌を買いに行った。
ここも閉店して今は「まこもだけ」と書かれている別の施設になっていました。

●スーパーにしな
昔はもう一本裏通りの小さな商店だったが、ここに地域では比較的大きなスーパーを建てた。住民も少ない地域だったのであまりお客が入っていなかった記憶がある。自分はよくお菓子とかジュースを買いに行った。当時コカコーラ等のロゴが入ったヨーヨーが流行っており、派遣された二人組の外人さんが子供達を集めてヨーヨーの技を披露してくれた思い出がある。
今はビジネスホテルになっている。

●宇根本病院・・・里庄駅前にあり、わが家族がよくお世話になった病院です。
私が風邪をひきやすかったので高熱が出たときに宇根本先生が自宅までよく往診に来てくれました。
内科と外科を一人でやっていて当時流行っていた盲腸の手術も多くやっていました。子供心に「医者って凄いなぁ」と尊敬していました。小児科はやっていませんでしたが行けば気さくに診察してくれました。5歳の時に小学校の遊具(遊動橋)から落下して後頭部を裂傷したときも宇根本先生に縫合してもらいました。
今は「にいつクリニック」になっていました。宇根本先生はもういないのかな? でも「医療法人 宇根本会」という表記がありますので宇根本先生の精神は引き継がれていると想像しています
●里庄東小学校・・・
東京から転校してきた小学校。校舎は建て直されていた。当時の体育館は木造でした。昭和50年以前は校舎も木造で横に二階建ての鉄筋コンクリートの校舎がありました。
当時の野球ブームとプロレスブームに伴って遊びも野球かプロレスでした。
休日は運動場が開放されており、人数が集まれば野球が始まりました。
休み時間は教室や廊下、砂場でプロレスごっこが定番でした。
あと学校行事か地域行事だったか記憶が曖昧ですが秋に収穫祭みないなのがあって、校庭で芋煮会みたいなことをやったり4年生以上がブースを出してゲームコーナー等をやりました。
自分たち4年生は当然のようにプロレス大会をやりました。でも6年生もプロレスをやっていて、体操用マットは6年生が使うので、4年生のプロレスは体操服に着替えて砂場でやりました。転ぶと口に砂が入り唾をペッペッと吐きながら試合をした思い出があります。試合が終わると髪の毛や服の中が砂だらけになりそれを掃うのがたいへんだった記憶があります。今の時代では怪我を心配して考えられない企画ですよね。今の子供は休み時間のプロレスごっこすら禁止されている学校が多いと聞きます。そもそも今の子供はプロレスなんて見たことも無い子が多いですよね。昭和50年代は大らかで良い時代でしたね。
3学期の学芸会は講堂(当時の木造体育館)で何か昔話の劇をやった記憶があります。
3学期の終わりに転校する自分のためにクラスでお別れ会を開いてくれた想い出があります。

プールは当時田んぼの中にポツンとあったが今は新たに校舎が建っていました。
体育館は当時は木造で「講堂」と呼ばれていました。今は立派な体育館です。

こうした田舎暮らしもすぐに終え5年生になる時に再び東京に戻って行きました。
後で母に聞いた話では結局よそ者は住めなかったということです。
「お大師講」という行事が地域の家で輪番で行われており、我が家でも何度か行いました。ただ我が家が入っていた組は(知った人がいなかったので)離れを購入した農家の組に入れてもらっていたそうで、本来とは違う組だったようです。そこで地域の重鎮から異議を唱えられたので本来の地区割りの組に入れてもらおうと交渉したら、横柄な態度で地域の全員に酒と懐石料理を振舞えば入れてやる・・・みたいなことを言われ・・・母子で細々と生活している感覚からすると納得できず・・ だったらもうどこの組にも入りません・・ということになりました。すると暫くして町議会のお偉いさんが訪ねて来て、住むからには地域の風習に従ってもらわないと困る・・・みたいなこと言われて、じゃあ他所に引っ越しますという結論になったようです。引っ越す際にこの家の所有権も手放し、それ以来二度と来ることはありませんでした。
私が来たのは前回が大学卒業時に北木島に墓参りに行く途中に車で通りました。その時はまだ家屋はありました。
そして今回は趣味の城巡りで近くにきたので久々で立ち寄った次第です。